自費の本も、丹精込めて育てた野菜も売れず、それでも農作業を続けたり、農学校の卒業生や農家の人を集めて、産業や肥料の講習、レコードコンサートに音楽団の練習をしていたそうです。世界が幸せにならない内は個人の幸福は実現しない、という信念の元に農民芸術の実践を試みた事もあったそうです、更に肥料設計事務所を開いて、無料で肥料の相談に乗っていたそうです。この事は詩に書かれており、後に再び上京して、タイプライターにセロ、オルガンに外国語を習ったり、劇を観に行ったそうです。資金は全て父親だよりで、この頃に彫刻家で詩も書いていた高村光太郎氏の元を訪れたそうです。
その後は小学校教員の女性と噂になったり、知人の妹と結婚するかもしれない、という話が出たり、異性との話もあった賢治ですが、結局は結婚せずに生涯を終えました。肺の病と診断された後も、体調が回復すると詩の制作を始めたり、父親が彼を心配して開設してもらった東北砕石工場の出張で技師になるなど、働く事は止めなった様です。
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