武田泰淳 『風媒花』 三十三

一 橋のほとり 三十三

「桂の瀟洒(しょうしゃ)な後姿が階段の降口から消えるのを待って、峯も席を離れる。誰にも別れを告げずに立去るのは、峯のくせだ。棕櫚(しゅろ)の鉢の側を通ると、強靭な葉が彼の合オーバーの肩で、バサバサ鳴った。別の、固く低い音が、階段に一足かけた彼の足もとで鳴った。彼の背後から小石か何か投げつけられたのだ。打ちつけられた小石は、リノリュウムの床に撥ね返り、植木鉢に当たって、床にころがる。それは黒い碁石だった。何物かの目的と意志を代表して、彼に向かって碁石が投げられたのだ。仲間が投げるはずはなかった。何ごとかが突発的に、ごく気まぐれに起こる。そんな時代に、彼は生きているのだぞと、小さく磨かれた黒い石は彼に語った。」

武田泰淳が書く地の文は、何とも言えぬ魅力があります。ここでも、峯の行動が描かれていますが、「偶然」が挿入されて、碁石が峯に投げつけられるという、峯に対する何物かの反発をそれは表わしているのか、この地の文だけでは何とも言えませんが、しかし、碁石が投げつけられたという一事だけでも、峯が時代からさげすまされているという暗示には十分です。

Posted in 文学, 風媒花 | Tagged , , , | Leave a comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください