宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について4

 ゴーシュの元へやってきた三毛猫が聞きたがったシューマン作曲の「トロイメライ」とは、穏やかな旋律でピアノ曲として有名です。しかし、ゴーシュが弾いたのは「印度の「虎狩」という曲を演奏します、調べたところ、この曲自体は作者である宮沢賢治の創作らしいのですが、とにかく猫が嫌がって暴れて、外に出ようと必死になる描写がされています。扉にからだをぶつけたり、眼や額から火花を出したり、それをゴーシュは面白がって更に勢いよく曲を演奏します。三毛猫が謝り、自分の周りをぐるぐるまわりだしてから、やっとゴーシュは演奏を止めました。
 演奏が止まると、それまでの暴れ方がウソの様に三毛猫は立ち直り、ゴーシュの選曲が悪いといいます。それにムッとしたゴーシュはタバコを取り出し、三毛猫のザラザラした舌を出させ、そこでマッチを擦り付けて火を起こしたのです。それに驚き、また三
毛猫は扉にぶつかり、外に出ようとします。それをみて、ようやく機嫌を直したゴーシュは扉を開けてやります。ようやく外に出られた三毛猫は、風の様に走っていきました。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について3

 夜中までセロを練習していたゴーシュの元を訪れたのは、何度か見たことがある三毛猫でした。その三毛猫はゴーシュの畑から、わざわざ重そうに持ってきたトマトをゴーシュの前におろすと、まるでゴーシュが持ってこさせたようなことを言いました。それを聞き、ゴーシュは昼間の事もあり、三毛猫を一気に怒鳴りつけました。自分はトマトなんて頼んでない、自分の畑のトマトだし、畑にいたずらもしたのはお前だろう、と三毛猫を追い返そうとします。ですが、三毛猫はゴーシュを先生と呼び、「シューマンのトロイ」を弾くことを勧めます。
 生意気な物言いでしたが、三毛猫は先生の演奏を聞かないと眠れないといい、一度は真っ赤になって怒鳴ったゴーシュですが、急に気を変えて「弾くよ」と言いました。そして、扉にカギをかけて、窓も締め切って、セロを取り出して明かりを消し、隙間から月の光が入る位の中で三毛猫のリクエストを聞き返します。「トロイメライ、ロマンチックシューマン作曲」と聞き、こんな曲かというとハンカチを引き裂いて自分の耳に詰めると別の曲を弾き始めたのです。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について2

 主人公のゴーシュは自分なりに一生懸命に担当楽器のセロを弾きますが、音楽団の楽長は曲の肝心な部分が揃っていない、特にセロの演奏がなっていない、他の楽器と音が合わないと、と怒るのです。そして、その日の練習は終わり、ゴーシュ以外の皆はおじぎをして一服したり、どこかへ出て行きました。演奏の余りの言われように泣いていたのに、誰も気に留めてくれなかったのです、それでも何とか気を取り直して一人で練習をしたのです。その日の夜遅く、ゴーシュは家代わりにしている、町はずれの川近くにある壊れた水車小屋に帰り、持ち帰ったセロを包みから出して、水を飲んで気合いを入れると虎の様な勢いで昼に練習した所を、弾き始めました。
 楽譜をめくり、試行錯誤して、最後まで弾くと、また頭から。夜中を過ぎても弾き続ける姿は、物凄い顔つきになって、今にも倒れそうでした。そんな時、扉をたたく音と「ホーシュ君か」という声がして、ゴーシュはハッとしました。そんなゴーシュの元に来たのは、5回か6回ほど見たことがある三毛猫だったのです。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について1

 本日から紹介する「セロ弾きのゴーシュ」は彼が世を去った翌年1934年に発表された作品です。この作品は、作者である彼自身が実際にチェロを練習した経験が反映されていると言われています、彼は農学校で教師をしていた頃に楽団をしようと自作の詩に曲をつけて演奏しようとチェロを購入して、練習したのです。そんな実体験を元にした物語ですが、童話作家らしく、主人公でセロ弾きのゴーシュの元に動物達が次々にやってくる、という内容になっています。
 まず、物語はゴーシュが町の活動写真館、今でいう映画館でセロを弾く係なのに上手ではなく、それどころか仲間の楽団員の中で一番下手なので、怒られている、という文章から始まります。今度の町の音楽会で「第六交響曲」の練習をするのですが、トランペット、ヴァイオリン、クラリネットに比べ、ゴーシュのセロは遅れたり、糸が合わない、など何度もダメ出しをされてしまいます。それでも、何とか曲を進めていきますが、やはりゴーシュの演奏がよくない、と最後まで演奏できなったのです。

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宮沢賢治「雨ニモマケズ」について1

 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は彼が残した詩、正確には手帳に残したメモですが、その内容とリズミカルな言葉のセンスから一般としては「詩」と認識されています。これが記されていたのは、彼が1931年頃に使用していたとされる黒い手帳で、世を去った後に発見されて鉛筆で書かれた本作も世に広まったそうです。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」
 そこからさらに東西南北で困っている人がいれば、自ら行って助けて、けれど諸手を挙げて歓迎されたり、褒められなくてもいい、そんな風になりたい、という言葉と彼が最後まで信仰していた法華経の御経が添えられています。実際に菜食生活をしたり、農学校の教師をしていた事もあり、彼の代表作として有名になったのでしょう。また、東西南北で困っている人を助ける精神論も、法華経から学んだとされています。また、この作品が有名になったのは花巻市に、この詩が刻まされた「詩碑」が建立されたこともあります。これには、生前から彼を評価していた高村光太郎氏が協力したそうです。

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宮沢賢治について7

 肺の病になり、それでも働く事を止めなった彼ですが、それでも、ある時に高熱で倒れた時は世を去る事を覚悟して家族に手紙を書いたそうです。そして、別れの挨拶のつもりで父親に連絡すると、父親は東京の知り合いに頼んで彼を呼び戻して療養させます。この年の11月に彼の代表作の1つである「雨ニモマケズ」を書きます、さらに1932年3月に「児童文学」という雑誌に「グスコーブドリの伝記」を発表、この際に挿絵を担当したのは棟方志功氏と言われています。病の身でありながら彼は新作と過去作の推敲を行い、医者の診察を受けずに自分で用意した物を飲んでいたそうです。ただ、医者ではない彼に出来るのは、それまででした。
 1933年9月に神社の祭り見物の翌日、相談にきた農民との話しを終えると呼吸困難になり、急性肺炎になりかけ、原稿を清六という人物に全て渡す、という内容を話しました。そして、法華宗の念仏の声が聞こえた、と家族が彼の様子を見に行くと父親に法華宗の冊子を作ってくれる様に頼むと数時間後に息と引き取りました。この時、宮沢賢治37歳、詩人・童話作家として評価される様になったのは世を去った後の事になります。次回からは、そんな彼の代表作を幾つか紹介していきます。

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宮沢賢治について6

 自費の本も、丹精込めて育てた野菜も売れず、それでも農作業を続けたり、農学校の卒業生や農家の人を集めて、産業や肥料の講習、レコードコンサートに音楽団の練習をしていたそうです。世界が幸せにならない内は個人の幸福は実現しない、という信念の元に農民芸術の実践を試みた事もあったそうです、更に肥料設計事務所を開いて、無料で肥料の相談に乗っていたそうです。この事は詩に書かれており、後に再び上京して、タイプライターにセロ、オルガンに外国語を習ったり、劇を観に行ったそうです。資金は全て父親だよりで、この頃に彫刻家で詩も書いていた高村光太郎氏の元を訪れたそうです。
 その後は小学校教員の女性と噂になったり、知人の妹と結婚するかもしれない、という話が出たり、異性との話もあった賢治ですが、結局は結婚せずに生涯を終えました。肺の病と診断された後も、体調が回復すると詩の制作を始めたり、父親が彼を心配して開設してもらった東北砕石工場の出張で技師になるなど、働く事は止めなった様です。

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宮沢賢治について5

 自費出版で詩集を出版した宮沢賢治ですが、当時の詩人に評価されたものの、本自体は売れませんでした。ですが、彼は続けて童話を出版します、それが彼の代表作「注文の多い料理店」です、出版当初のタイトルは「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」です。詩集が売れなかったので父親から幾分か借りて、更に発刊した本も幾分か買い取ってもらうなど出版費用の工面には苦労したそうですが、それでも東京で印刷製本して、「光源社」の名義で1000部作りましたが全く売れませんでした。ですが、広島出身で日本の児童文化運動の父とされる小説家で児童文学者の鈴木三重吉氏が厚意で、彼が創刊した童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」で「注文の多い料理店」の広告が1ページですが掲載されました。
 この様に、現在は詩人・童話作家として有名な宮沢賢治ですが、当時は無名だったのです。そして、農学校の教師を辞め、百姓になるという手紙を弟に送り、妹トシが療養していた別宅に移って本格的な農業を始めます。ただ、これも売り方が悪く、生活は苦しかったそうです。

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宮沢賢治について4

 家を飛び出し、東京で印刷所に勤めていた宮沢賢治ですが、それでも目当てだった法華宗への関心は捨てられず、それが原因で友人と疎遠になったり、父親と溝が深まるばかりでした。ですが、妹トシが病気だという電報を受け取ると、直ぐに荷物を纏めて故郷に戻りました。それから農学校教諭になり、雑誌「愛国婦人」に「雪渡り」という子供と子狐たちの交流を描いた創作童話が掲載されます、これが彼の作家デビューでもあり、生前に手にした唯一の原稿料と言われています。それが1922年頃ですが、同年11月に妹トシが世を去り、彼は妹の名を呼びながら号泣したそうです。それから暫くは創作活動をしなかったそうですが、農学校生徒の就職の事で樺太を旅行した後は、トシを思う詩を書いたそうです。
 その2年後、1924年に「心象スケッチ 春と修羅」を自費出版しますが、東京で売ってくれるように頼んだ相手が悪く、全く売れませんでした。ですが、新聞に紹介されたり、詩人の佐藤惣之助はオリジナリティーがあると認め、後世に名を残す詩人の中原中也は買い集めて知り合いに配るなど評価自体はされていたそうです。

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宮沢賢治について3

 小学校で物語の面白さを知り、大学で仲間と共に同人誌を発行し、そこに自分でも作品を載せた。この頃は、まだ詩人としても童話作家としても大きな結果を出していなかった宮沢賢治ですが、すでに種は蒔かれていたのです。そして大学は卒業しますが、土の特性を調査する研究生として残り、一度は意欲がないと顔を背けたものの、知り合いから推薦を受けた事もあり、心を込めて仕事に打ち込んだそうです。また、宮沢賢治と言えば「1日玄米4合、味噌と野菜」という食生活が有名ですが、この頃に約5年間の菜食生活を行ったそうです。そして、病院で病の診断を受け、山歩きを止められるものの何とか報告書を提出、その時から自分は長く生きられないと悟ったのか、帰省した際は「蜘蛛となめくじと狸」と「双子の星」という物語を執筆して家族に朗読したそうです。
 そこから妹のトシが肺炎を患った事を心配したり、将来や家業の事で父と衝突しながらも農林学校研究生を卒業しますが、大正10年、1921年に東京行きの汽車に乗って家を出ていきます。この時、彼が向かったのは「国柱会館」という仏教の「法華宗」に関する場所でしたが、対応した人物に宥められて、下宿しながら東大赤門前の印刷所に勤めたそうです。

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