武田泰淳 『風媒花』 三十四

一 橋のほとり 三十四

次に失業中の中井の描写になります。それは当時を象徴する人間の姿だったの魔かもしれません。

「『何だ、峯、馬鹿に帰りを急ぐじゃないか』中井の力無い笑いが、虫歯の黒い歯並びをのぞかす。医師の診断は「偏食」、高価な注射を打った効能の失せるのを恐れ、中井は何より好きな酒を、今夜は遠慮している。そのため、精気のない土色の頬は、寒気だっている。医師は彼の欠食に気づかなかったのだろうか。幽鬼のように痩せ細った中井は、油分も水分もきれた黄ばんだ皮膚だ。
『金を貸してくれないか。帰りに飲屋によるんだから』
『焼酎はよした方がいいぜ。その身体じゃ』
『飲むんじゃないよ。マダムにちょっと話があるんだ』
復員のさい支給された軍隊ワイシャツし、真紅のネクタイに飾られて、かえって具合わるそうに醜い皺を寄せている。この男は、かつてダンスーのうまい、颯爽たるモダンボーイだった。喧嘩好きの、スラリとし長い脚は、人を蹴るのが巧みだった。」

ここに武田泰淳の人間観察の冷徹な目が際立っています。この中井のモデルは実際にいますが、それは伏せて、物語世界に没頭します。

武田泰淳の手にかかれば、人間は、中井のようにみすぼらしく醜い存在なのかもしれません。また、中井が失業中というのが妙味が効いています。

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