武田泰淳 『風媒花』 三十六

一 橋のほとり 三十六

「『まさか自殺や他殺じゃないと思うんだが』
『自殺する事もないだろうがなあ』
 骨の尖った中井の咽喉が、ゴクリと動くのを、峯は見とどけた。河面も河岸も河沿いの建物の壁も、おしなべてねばっこい黒色に変わった。打ち棄てられた蕃人の槍のように、黒い水面はゆったりと、うねりの背を光らせた。夜の河は、古生代から奸智(かんち)を貯えた、爬虫類の腹に似ていた。闇から光へ、光から闇へと、街上の人々は流れ動いた。人々の動きは、せからしかった。生命をすりへらすために、先を争っているようにさえ見えた。夜の群集は、夜の河より、単純な、わかりやすい生物の如く思われた。『自殺』。それを中井は、友の身の上に、また、自己のカサカサした皮膚に予感したに違いない。」

武田泰淳の地の文は上手いとしか言いようがないほどに、筆致が冴え渡っています。この描写の仕方は、とても素晴らしいものです。これは、武田泰淳が持って生まれたが難利器によるものなのかもしれません。

それにしても、ここは、名文です。

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