夏目漱石について その30

 もう11月だから「秋の夜長」を堪能しようと思ったら、一気に気温が上昇して、今度は外の天気が荒れて「秋」らしさが吹き飛んでしまいました。ですが、室内では関係ないので本日も夏目漱石について紹介していきます。漱石が「修善寺の大患」から復帰して、博士号の問題が片付いても彼の周囲は静かとは言えませんでした。なぜなら、当時からすでに作家として幾人のも弟子がおり、それによって持ち込まれる問題もあったのです。その中で森田米松と小宮豊隆が受け持っていた新聞の文芸欄で一悶着あったのです。中身が別の記事と同じだ、反社会的な内容だと新聞社の風潮に合わない事を二人がしていたそうです。
 その頃の漱石は新聞社に頼まれて大阪に講演に行っており、そこで食べ過ぎて再び吐血して倒れていました。元々は漱石が小説の他にも美術や海外文壇の話題や書評を扱う場所があればいいのでは、という事から始まったので漱石は責任は自分にあると辞表を出そうとしました。これには周囲は驚き、なだめて思い留まらせたそうです。

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