武田泰淳 『風媒花』 十一

一 橋のほとり 十一

「どのように親しみ合い、愛し合ったところで、仲間の一人々々の皮膚のほんのわずかの距離にも、塵埃の充満した空気が、ボアッと立ちふさがっているのだ。」

この認識の仕方は徹底的に正しいです。距離こそが、時間の秘密なのです。距離は、自汗で置き換えられます。つまり、距離が存在するということは、その距離分だけ《過去》にある、ということを意味します。その事を武田泰淳は、本能的に感じ取っています。

「時によって、そのどんよりとしと濁った中間の空気に火花が散る。その火花で熱せられ、目ざまされた瞬間だけ、我々はどうやら、同一の目的に向かって邁進(まいしん)する(或は押し流される)に足る暖かい同類意識と、冷たい憎悪を湧かす。それで互いに結びつけられる。その瞬間がなければ、異質の性格で反撥し合うインテリが、何も寄り集まって、傷つけ合う必要は無い。今のところ、日本のインテリはいくら意識的に馴れ合っても、やはり孤独である。孤独であることだけが、やがて彼等が新しい変貌で結合するまで(永久に訪れない結合かも知れないが)、彼等をそれぞれ支えているのだ。彼等には、同一の職場で、わかり易い身近な機構の中で、万事打ち揃って、要求し、憤慨し、敗退し、生き続ける労働者仲間のたしかな手ざわりが恵まれていない。彼等にあるものは、統一された職場の手ざわりではなく、ブワブワした知識ざわりと、ひどく鋭敏な神経ざわりである。」

長い引用ですが、ここに武田泰淳と言う作家の魅力が凝縮しています。《吾》に対する《他》の有様が短い言葉ながら、全て言い尽くされたような見事な文章です。人間と人間との関わり合いというものは、其処に絶えず憎悪が蠢き、然しながら、そうではあっても人間は、社会的な動物の本能として「群れる」ことを敢えて行うのです。それが、この短い地の文で見事に表現されています。見事としか言いようがありません。

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