宮沢賢治について2

 勉強しても嫌いな家業を継ぐしかない、そんな将来が嫌で大好きな鉱物採集や星座の為に彼は岩手山、南昌山、鞍掛山など、盛岡近くの山を歩き、沢山の標本の材料を集めました。ですが、3年の頃に石川啄木の影響を受けて短歌を作るなど、創作活動の片鱗は既にあったのです。それから、ある事件で寮を出る事になり、4年生の時に住まいを盛岡市北山の清養院に移します、そうして大正3年の3月に中学校を卒業します。その後は入院したり、入院先の病院の看護師に恋をして結婚したいと言い出して反対されたり、実家の店番や養蚕の手伝いで気持ち的に暗い日々を過ごしてた彼を見かねて、父親が盛岡高等農林学校へ行く事を認めると、今度は勉強に励んだそうです。
 そして、今度は主席で入学して、翌年には特待生に選ばれ、授業料を免除されたそうです。農林学校では土壌に関する学問を専攻して、多くの手紙をやり取りした保阪嘉内氏と親しくなります、そして彼と他の友人達と大正6年に同人誌「アザリア」を発行して、彼は短歌や短編を寄稿したそうです。

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