宮沢賢治について3

 小学校で物語の面白さを知り、大学で仲間と共に同人誌を発行し、そこに自分でも作品を載せた。この頃は、まだ詩人としても童話作家としても大きな結果を出していなかった宮沢賢治ですが、すでに種は蒔かれていたのです。そして大学は卒業しますが、土の特性を調査する研究生として残り、一度は意欲がないと顔を背けたものの、知り合いから推薦を受けた事もあり、心を込めて仕事に打ち込んだそうです。また、宮沢賢治と言えば「1日玄米4合、味噌と野菜」という食生活が有名ですが、この頃に約5年間の菜食生活を行ったそうです。そして、病院で病の診断を受け、山歩きを止められるものの何とか報告書を提出、その時から自分は長く生きられないと悟ったのか、帰省した際は「蜘蛛となめくじと狸」と「双子の星」という物語を執筆して家族に朗読したそうです。
 そこから妹のトシが肺炎を患った事を心配したり、将来や家業の事で父と衝突しながらも農林学校研究生を卒業しますが、大正10年、1921年に東京行きの汽車に乗って家を出ていきます。この時、彼が向かったのは「国柱会館」という仏教の「法華宗」に関する場所でしたが、対応した人物に宥められて、下宿しながら東大赤門前の印刷所に勤めたそうです。

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