家を飛び出し、東京で印刷所に勤めていた宮沢賢治ですが、それでも目当てだった法華宗への関心は捨てられず、それが原因で友人と疎遠になったり、父親と溝が深まるばかりでした。ですが、妹トシが病気だという電報を受け取ると、直ぐに荷物を纏めて故郷に戻りました。それから農学校教諭になり、雑誌「愛国婦人」に「雪渡り」という子供と子狐たちの交流を描いた創作童話が掲載されます、これが彼の作家デビューでもあり、生前に手にした唯一の原稿料と言われています。それが1922年頃ですが、同年11月に妹トシが世を去り、彼は妹の名を呼びながら号泣したそうです。それから暫くは創作活動をしなかったそうですが、農学校生徒の就職の事で樺太を旅行した後は、トシを思う詩を書いたそうです。
その2年後、1924年に「心象スケッチ 春と修羅」を自費出版しますが、東京で売ってくれるように頼んだ相手が悪く、全く売れませんでした。ですが、新聞に紹介されたり、詩人の佐藤惣之助はオリジナリティーがあると認め、後世に名を残す詩人の中原中也は買い集めて知り合いに配るなど評価自体はされていたそうです。
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