宮沢賢治について7

 肺の病になり、それでも働く事を止めなった彼ですが、それでも、ある時に高熱で倒れた時は世を去る事を覚悟して家族に手紙を書いたそうです。そして、別れの挨拶のつもりで父親に連絡すると、父親は東京の知り合いに頼んで彼を呼び戻して療養させます。この年の11月に彼の代表作の1つである「雨ニモマケズ」を書きます、さらに1932年3月に「児童文学」という雑誌に「グスコーブドリの伝記」を発表、この際に挿絵を担当したのは棟方志功氏と言われています。病の身でありながら彼は新作と過去作の推敲を行い、医者の診察を受けずに自分で用意した物を飲んでいたそうです。ただ、医者ではない彼に出来るのは、それまででした。
 1933年9月に神社の祭り見物の翌日、相談にきた農民との話しを終えると呼吸困難になり、急性肺炎になりかけ、原稿を清六という人物に全て渡す、という内容を話しました。そして、法華宗の念仏の声が聞こえた、と家族が彼の様子を見に行くと父親に法華宗の冊子を作ってくれる様に頼むと数時間後に息と引き取りました。この時、宮沢賢治37歳、詩人・童話作家として評価される様になったのは世を去った後の事になります。次回からは、そんな彼の代表作を幾つか紹介していきます。

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