武田泰淳 『風媒花』 二十四

一 橋のほとり 二十四

「……。/『そうだな。戦争文学は南方物の方が良いのが出ているな。梅崎の〈日の果て〉とか大岡の〈俘虜記〉とか。中国の戦場を扱った傑作はないな』と、梅村が言った。/『わずかに、駒田の〈脱出〉があるだけだな』と、軍地が言った。/『〈脱出〉もしかし、下士官の眼から見た作品だな。兵卒の眼から見た物が出ていないな』/と、沈んだ声で原が言った。」

ここで挙げられている本は、実際に存在する名作ばかりです。中国物は、此の『風媒花』の小説世界には出てきませんが、当然、本作『風媒花』が名作なのです。

「原は自身も下士官として、揚子江沿岸で負傷した経験がある。そのため、話が中日戦争に移ると、長身の原の長めの鼻筋に、二十代とは思われぬ暗い皺が刻まれた。かつて日本軍部隊の優秀な、もっとも良心的な下士官であった経歴までが、忠実な中国研究者たらんとする彼の苦悩を深くするのだ。中日戦争を忘れて、中国を論ずることは、彼等の何人にも許されていない。何万何十万の中国民衆の家庭を焼き払い、其の親兄弟を殺戮(さつりく)したあの戦争を語る事は苦痛だ。唇が歪み、心像がねじれるほどの苦痛だ。その黒々とした事実、それは彼等の全人生を蔽う。米英は、日本にとって打ち克ちがたい強者であった。米英と戦うことは、強者に挑んだ日本人の、せつない戦いの一種であった。米英に対して、日本は無鉄砲な挑戦者ではあったが、いやらしい侵略者ではなかった(侵略者であることすら出来なかった)。」

ここから、武田泰淳の戦争観が語られてゆくのですが、今日はここまでにします。唯、武田泰淳は、中国に対しては日本は厭らしい侵略者であったと断罪しています。

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