宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について7

 演奏が止まっても鳴き続けたカッコウに、ゴーシュは怒りました、そして用が済んだのなら帰れと言います。ですが、カッコウは後一度だけ演奏をしてほしいといい、ゴーシュの演奏はいいようだけれどすこしちがう、と続けます。自分に音楽を教わりに来たのに、まるで教えるようなカッコウの言い方に、ゴーシュは更に帰れと言います。ですが、カッコウはお願いです、と何度も頭を下げました。根負けしたゴーシュは、これで最後だと言い、弓を構えます。カッコウは出来るだけ永く演奏してくれるように言い、始まると本気になって、からだをまげて一生懸命に「かっこうかっこうかっこう」と叫びました。
 最初は嫌々ながらしていたゴーシュですが、弾いているうちに何だか、カッコウの方が本当にドレミファになっている様に気がしてきたのです。弾けば弾くほどに、そう思えてきたゴーシュは「こんなばかなことをしていたら自分が鳥になる」という様な事をいい、演奏をやめました。すると、さっきと同じ様に、カッコウはふらふらしながらも最後に少し鳴いてやめました。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について6

 三毛猫を追い返した次の晩にやってきたのは、カッコウでした、カッコウはゴーシュに音楽を教えてほしいといいますが、彼は鳴き方なんて同じなんだから、教わっても意味がないだろう、と言います。1万いれば1万通りの鳴き方になると言えば、わざわざ自分の所へ来る必要がないだろう、と全く教える気がありませんでした。それでも、カッコウはドレミファから正確にやりたい、とゴーシュに演奏を頼みます。ゴーシュの演奏に合わせて歌うというカッコウに、とうとうゴーシュは3回だけ、という条件でセロを弾くことにします。弦を調整して、演奏を始めますが、カッコウは違うと言います。
 どう違うのか聞けば、カッコウは姿勢を整えて、かっこうと鳴きました。それを聞いてゴーシュがかっこうと弾けば、喜んで鳴き続けました、それは本当に一生懸命にからだをまげて、彼の手が痛くなるまでカッコウは続けました。ゴーシュが演奏を辞めると、カッコウは残念そうにしましたが、最後に少しだけ鳴いてやっと鳴くのをやめたのです。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について5

 三毛猫に八つ当たりして、見事に追い出してやったゴーシュは、少し愉快に気持ちになり、その晩はぐっすり眠りました。そして、次の晩もゴーシュはセロの包みを担いで帰ってきました、そして水を飲むと昨日と同じくセロを弾き始めます。それから真夜中になってもゴーシュは練習と続けました、もう自分でも何時か分からなくなった頃に、屋根裏を叩く音がしました。ゴーシュは三毛猫が来たと思い、叫びました、すると天井の穴から音がして、灰色の鳥が降りてきました。床にとまった鳥は、カッコウでした、ゴーシュは何の用だと聞けば、カッコウは音楽を教わりたいと、すまして言いました。
 ゴーシュはカッコウの歌は名前の通りに鳴くだけだと言いますが、それが難しいとカッコウは言います。ゴーシュは難しくないと言いますが、やはりカッコウは鳴き方にも違いがあると言います。それがひどいと言いますが、ゴーシュは違わないと言い切ります、ならばゴーシュには分からないのだと、仲間ならみんな違う事が分かるとカッコウは言います。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について4

 ゴーシュの元へやってきた三毛猫が聞きたがったシューマン作曲の「トロイメライ」とは、穏やかな旋律でピアノ曲として有名です。しかし、ゴーシュが弾いたのは「印度の「虎狩」という曲を演奏します、調べたところ、この曲自体は作者である宮沢賢治の創作らしいのですが、とにかく猫が嫌がって暴れて、外に出ようと必死になる描写がされています。扉にからだをぶつけたり、眼や額から火花を出したり、それをゴーシュは面白がって更に勢いよく曲を演奏します。三毛猫が謝り、自分の周りをぐるぐるまわりだしてから、やっとゴーシュは演奏を止めました。
 演奏が止まると、それまでの暴れ方がウソの様に三毛猫は立ち直り、ゴーシュの選曲が悪いといいます。それにムッとしたゴーシュはタバコを取り出し、三毛猫のザラザラした舌を出させ、そこでマッチを擦り付けて火を起こしたのです。それに驚き、また三
毛猫は扉にぶつかり、外に出ようとします。それをみて、ようやく機嫌を直したゴーシュは扉を開けてやります。ようやく外に出られた三毛猫は、風の様に走っていきました。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について3

 夜中までセロを練習していたゴーシュの元を訪れたのは、何度か見たことがある三毛猫でした。その三毛猫はゴーシュの畑から、わざわざ重そうに持ってきたトマトをゴーシュの前におろすと、まるでゴーシュが持ってこさせたようなことを言いました。それを聞き、ゴーシュは昼間の事もあり、三毛猫を一気に怒鳴りつけました。自分はトマトなんて頼んでない、自分の畑のトマトだし、畑にいたずらもしたのはお前だろう、と三毛猫を追い返そうとします。ですが、三毛猫はゴーシュを先生と呼び、「シューマンのトロイ」を弾くことを勧めます。
 生意気な物言いでしたが、三毛猫は先生の演奏を聞かないと眠れないといい、一度は真っ赤になって怒鳴ったゴーシュですが、急に気を変えて「弾くよ」と言いました。そして、扉にカギをかけて、窓も締め切って、セロを取り出して明かりを消し、隙間から月の光が入る位の中で三毛猫のリクエストを聞き返します。「トロイメライ、ロマンチックシューマン作曲」と聞き、こんな曲かというとハンカチを引き裂いて自分の耳に詰めると別の曲を弾き始めたのです。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について2

 主人公のゴーシュは自分なりに一生懸命に担当楽器のセロを弾きますが、音楽団の楽長は曲の肝心な部分が揃っていない、特にセロの演奏がなっていない、他の楽器と音が合わないと、と怒るのです。そして、その日の練習は終わり、ゴーシュ以外の皆はおじぎをして一服したり、どこかへ出て行きました。演奏の余りの言われように泣いていたのに、誰も気に留めてくれなかったのです、それでも何とか気を取り直して一人で練習をしたのです。その日の夜遅く、ゴーシュは家代わりにしている、町はずれの川近くにある壊れた水車小屋に帰り、持ち帰ったセロを包みから出して、水を飲んで気合いを入れると虎の様な勢いで昼に練習した所を、弾き始めました。
 楽譜をめくり、試行錯誤して、最後まで弾くと、また頭から。夜中を過ぎても弾き続ける姿は、物凄い顔つきになって、今にも倒れそうでした。そんな時、扉をたたく音と「ホーシュ君か」という声がして、ゴーシュはハッとしました。そんなゴーシュの元に来たのは、5回か6回ほど見たことがある三毛猫だったのです。

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宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」について1

 本日から紹介する「セロ弾きのゴーシュ」は彼が世を去った翌年1934年に発表された作品です。この作品は、作者である彼自身が実際にチェロを練習した経験が反映されていると言われています、彼は農学校で教師をしていた頃に楽団をしようと自作の詩に曲をつけて演奏しようとチェロを購入して、練習したのです。そんな実体験を元にした物語ですが、童話作家らしく、主人公でセロ弾きのゴーシュの元に動物達が次々にやってくる、という内容になっています。
 まず、物語はゴーシュが町の活動写真館、今でいう映画館でセロを弾く係なのに上手ではなく、それどころか仲間の楽団員の中で一番下手なので、怒られている、という文章から始まります。今度の町の音楽会で「第六交響曲」の練習をするのですが、トランペット、ヴァイオリン、クラリネットに比べ、ゴーシュのセロは遅れたり、糸が合わない、など何度もダメ出しをされてしまいます。それでも、何とか曲を進めていきますが、やはりゴーシュの演奏がよくない、と最後まで演奏できなったのです。

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宮沢賢治「雨ニモマケズ」について1

 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は彼が残した詩、正確には手帳に残したメモですが、その内容とリズミカルな言葉のセンスから一般としては「詩」と認識されています。これが記されていたのは、彼が1931年頃に使用していたとされる黒い手帳で、世を去った後に発見されて鉛筆で書かれた本作も世に広まったそうです。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」
 そこからさらに東西南北で困っている人がいれば、自ら行って助けて、けれど諸手を挙げて歓迎されたり、褒められなくてもいい、そんな風になりたい、という言葉と彼が最後まで信仰していた法華経の御経が添えられています。実際に菜食生活をしたり、農学校の教師をしていた事もあり、彼の代表作として有名になったのでしょう。また、東西南北で困っている人を助ける精神論も、法華経から学んだとされています。また、この作品が有名になったのは花巻市に、この詩が刻まされた「詩碑」が建立されたこともあります。これには、生前から彼を評価していた高村光太郎氏が協力したそうです。

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宮沢賢治について7

 肺の病になり、それでも働く事を止めなった彼ですが、それでも、ある時に高熱で倒れた時は世を去る事を覚悟して家族に手紙を書いたそうです。そして、別れの挨拶のつもりで父親に連絡すると、父親は東京の知り合いに頼んで彼を呼び戻して療養させます。この年の11月に彼の代表作の1つである「雨ニモマケズ」を書きます、さらに1932年3月に「児童文学」という雑誌に「グスコーブドリの伝記」を発表、この際に挿絵を担当したのは棟方志功氏と言われています。病の身でありながら彼は新作と過去作の推敲を行い、医者の診察を受けずに自分で用意した物を飲んでいたそうです。ただ、医者ではない彼に出来るのは、それまででした。
 1933年9月に神社の祭り見物の翌日、相談にきた農民との話しを終えると呼吸困難になり、急性肺炎になりかけ、原稿を清六という人物に全て渡す、という内容を話しました。そして、法華宗の念仏の声が聞こえた、と家族が彼の様子を見に行くと父親に法華宗の冊子を作ってくれる様に頼むと数時間後に息と引き取りました。この時、宮沢賢治37歳、詩人・童話作家として評価される様になったのは世を去った後の事になります。次回からは、そんな彼の代表作を幾つか紹介していきます。

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宮沢賢治について6

 自費の本も、丹精込めて育てた野菜も売れず、それでも農作業を続けたり、農学校の卒業生や農家の人を集めて、産業や肥料の講習、レコードコンサートに音楽団の練習をしていたそうです。世界が幸せにならない内は個人の幸福は実現しない、という信念の元に農民芸術の実践を試みた事もあったそうです、更に肥料設計事務所を開いて、無料で肥料の相談に乗っていたそうです。この事は詩に書かれており、後に再び上京して、タイプライターにセロ、オルガンに外国語を習ったり、劇を観に行ったそうです。資金は全て父親だよりで、この頃に彫刻家で詩も書いていた高村光太郎氏の元を訪れたそうです。
 その後は小学校教員の女性と噂になったり、知人の妹と結婚するかもしれない、という話が出たり、異性との話もあった賢治ですが、結局は結婚せずに生涯を終えました。肺の病と診断された後も、体調が回復すると詩の制作を始めたり、父親が彼を心配して開設してもらった東北砕石工場の出張で技師になるなど、働く事は止めなった様です。

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